季節の変わり目で風邪をひいたり、冷たく乾いた空気に当たり過ぎたりして、鼻をぐずつかせる生徒や教職員が最近目立って増え始めている。
そんな人たちの間に、医務室には効果抜群な「鼻の薬」があるそうだと噂を流す。
だけどその在り処は善法寺先輩しか知らないんだって。どうして隠すのかって? さあ、知らない。きっと高い薬なんじゃない? でも、あの優しい保健委員長が、いくら貴重だからって薬を出し惜しむはずがないよ。だってみんなこんなに鼻水で困ってるんだから!
「善法寺先輩は保健委員の下級生にさえ生物との関わりを黙っている。だけど――何だろう、あれこれ薬種が手に入って機嫌が良くなったのか、"とてもいい鼻薬が手に入った"というようなことは言っているんだ」
それを乱太郎や左近は文字通り「すごく良く効く鼻の薬」と受け取った。賄賂とか裏取引なんて欠片も考えない、いじらしいくらい健全な思考だ。
利益供与と聞いてすぐに"鼻薬"やら"袖の下"を思いついたからこすっからいという意味ではないと、目の辺りを少し曇らせた一年生たちを急いでフォローする。会計委員なんだからそれを連想して当然だ。むしろ良くぞ思い付いた。だからそんな荒んだ顔をするなって。
ともあれ。
きれいに体裁を整えた収支報告書の裏側でうごめいている何かの一端を、ほんの一言とはいえ自発的に第三者に洩らしたのは伊作だけ。ならばそこを蟻の一穴と成して千丈の堤を破るまでだ。
「よく効く薬があると聞いたのだといって、本当は存在しないものをみんなが貰いに来たら、きっと善法寺先輩は困りますね」
「かと言って、そんなものないと言えば、じゃあ"いい鼻薬"とは何の事なんですか――って話になる」
現に乱太郎は雷蔵に"鼻の薬"が入り用になったらどうぞと話し、雷蔵もまたそれを三木ヱ門に伝えている。真に受けて薬を貰いに行っていたら、伊作はどんな顔をしただろうか。
そんなに効くものなら是非とも処方してほしいと、実物がない薬をあちらこちらから要求されたら、困った伊作はどう動くだろう?