久作の声に顔を上げかけた途端、転がった巻物に伸ばそうとしていた手の先を、小さな旋風が吹き抜けた。
「……ねずみがいました」
巻物ではなく空気の塊を掴んで拍子抜けした三木ヱ門の顔へ廊下の向こうから視線を戻し、久作が言う。
「いました、って……今の弾丸みたいな風が?」
ねずみはすばしっこいものだが、それでも影さえ見せずに瞬きより早く走り去るなんてことができるものだろうか。三木ヱ門がそう言うと、久作も不思議そうに首を傾げた。
「どういうわけかこのひと月ぐらい、下級生の長屋に住み着いてるネズミや虫が妙に元気なんですよね。壁に張り付いたヤモリは後ろ脚で立って走り出すし、モモンガは天井裏から屋根を破って飛び立つし、羽虫や便所コオロギは厠の中で運動会だし、ゴキブリなんて床を走っても素早すぎて目に見えないくらいです」
「うわぁ。嫌だなそれは」
「そうですか? 見えなければいないのと一緒だから、かえって気にならないですよ」
「不破先輩の大雑把がうつったんじゃないか、お前。……と言うより、下級生たちは部屋の掃除をちゃんとしてるんだろうな」
外から訪ねて来るモモンガやヤモリはいいとして、居心地がいいと際限なく増えるねずみだのゴキブリだのは、いずれ虫獣遁で使うかもしれないからと放っておくにも限度があるし、好き勝手にのさばらせておいては衛生上大いに問題がある。
非難するような三木ヱ門の口調に、几帳面で通っている久作はキッとして言い返した。
「少なくとも二年生はきちんとしてます。三年生のことは分かりませんけど、僕らの手前みっともないことはしないでしょう。一年生は、い組は真面目だしろ組はバッチイのが嫌いだから、掃除は真面目にやってるはずです。だからねずみや虫を湧かせるとすれば――」
「一年は組か」
行き着くべき所に行き着いた気がする。
すると、は組の部屋から長屋中へ散っていった招かれざる居候たちは、家主のもとで一体何をして限界以上の体力を手に入れたんだろう。ねずみたちが囓ったしんべヱが部屋に溜め込んでいると噂の南蛮菓子の中に、滋養強壮に効果抜群なシロモノでも混ざっていたんだろうか。
……帳簿の計算で徹夜になった時、役に立ちそうだな。
「図書室に南蛮の薬や本草学の図鑑ってあるか?」
「買うはずが買えませんでした」
淀んだ目をして答えた久作が、でも、と言葉を続ける。
「保健委員長の善法寺先輩なら、南蛮渡来の薬についてもご存知なのでは」
「結局、そうなるんだ……」